花とウォーキングシューズ

お花写真と俳句などです

スケッチは難しかりけりポエムあり

風に流るる柳の葉

昔想ひし黒髪の

光に透くを偲ばせる

 

はた病み果てし年月に

日々のたつきの得られずば

詮方もなく百均の

スケッチブック買い求む

 

急ぎ歩きの通勤の

諸兄諸嬢の目を逃れ

静まり返る平日の

公園ベンチに席を占む

 

思ひは千里走れども

拙き筆は愚かしく

小学生もかくやかと

秋の柳は笑ひけり

 

ごみ収集の人の目に

われはいかにと映るらむ

人目気にする性ならば

肩身の狭き道半ば

 

ブログにおける一時の

ただ一笑にすべて賭け

持てる時間を皆様の

心を晴らすためにのみ

捧ぐ思いのひたすらを

なにとぞ忘れたもうなかれ

 

まあ、そんな感じでして、公園スケッチしたものの、画像をUPして皆さんの貴重な時間をお取りするわけにはいかない出来でした。

そういえばAIが小説を書き、絵を描く時代だとか。

もしかすると商業用はそうなるのかな。理屈が難しくてついていけませんが。

あとは個人の楽しみの世界なのかなあ。

ブログのありがたい点は、個人の趣味を発信できることですね。

AIができるからと言って、やらないって法はないわけだし。

結局人間性の回復といったものは趣味の世界にあるのかなと思ったりして。

貴重なのは時間かも。

にしても世の中に出回るものがコンピュータの生み出したものになっていくのは、もちろん他人や機械に人生を乗っ取られるような気分になります。

病人やっていると、商業的なことからなるべく遠ざかろうという姿勢になるので(稼げないので無駄金は使えない)、べたべたな絵を描いたり、俳句作ったりして、遊んでいられるメリットが実はあった?

なんだか逆転現象か?

もっとも食べられなければお話になりませんが。親よいつまでも。(あ~お二人、肺に影がとか言っている場合ではない~。)

冗談はさておき、それにしても何のために絵や小説があるのかわからなくなってきます。

個人の感情の開放が共感を呼ぶところに夢も価値もあったはずなのに。

ただの娯楽を超えたものであったはずなのに。

芸術がAIの作るものになったら、感情想起ゲームと同じだわ。

人間性や、人間の感情って、結局機械やデータで解読されてしまうものなのかしら?

本物のロマンの方が好きなんですが。

ま、しょせん猿の進化した存在、脳の働きの限界はあるのかもしれませんが。

ギフテッド、天才の人はどういう考え方をするのでしょうね。

さすがにまだAIの情報処理を超える発想ができると思うのですが。

問題は、天才の作るものは大半がおそらく凡人には理解不能ってことかも。

うーん。自分で言っててなんだかわかんなくなってきた。

最後の砦は漫画なのかな。

で、俳句です。

 

 金風や通学の子の駆け上がる

 

 川の辺のまそほの芒目を射たり

 

 名の知らぬ草の花なり風の土手

 

 何かゐるか打ち捨てられし栗林

 

 秋日燦Jアラートが鳴ると聞く