図書館へ行ったら、アランの幸福論が二冊も目に付きました。
幸福論はヒルティ、ラッセル、アランの著作が三大幸福論とされているそうです。
どれも有名な本ですが、私は意識して読んだことがなかったので、この機会に、
読みやすくなっているものを探して、順次さらっと見ておきたいなと思います。
今回は上之次郎訳の「よくわかるアランの幸福論」を読み飛ばしつつも得た感想です。
幸福を追求する気迫、並々ではないと思いました。
ただ一回の人生、これを磨き上げねばなんとするという感じがします。
甘やかされて、のんのんと月日を送ってきた私にはかなり耳の痛いことも書いてあります。
幸福って甘い夢の中にはないとは薄々わかっていても、ついついいろいろなことを怠けて妄想にふけってしまっていましたが、それをぴしりと叱り飛ばされた気分です。
行動して、自分の意志で日々を築いていくこと、やると決めたら、いろいろな問題に耐えて、乗り越えること、そのことには空想や甘えの余地はないようです。
主体的な意思に基づく経験が幸福をもたらすということでしょう。
現実世界に何を求めるか、それを決めるのも、自分次第。
さまざまな条件のもとに人はあるけれども、幸福にアグレッシブになることはすべての人が心がけることができることかもしれません。
周囲に意思を委ねないことが大事なんでしょう。
そのためには物事の背景を良く知って、自分の意志決定をすることが必要だなと思いました。
好き嫌いだけではいずれ行き詰まるでしょうから。
世の中とその流れと、自分のできることと、幸福追求。
そのバランスを取りつつすっきり生きていければ気持ちがよいでしょうね。
わたしはいろいろな物事をじっとして味わうのが好きでしたが、これ以上そうやって生きていくのはあまり自分のためにはならないようだと悟りました。
かといって、何ができるかと言えばまだよくわからないのですが。
まあ、野菜栽培の失敗談を書きつつ、技術をそれなりに磨いて、あとは日々の家事ですね。
家事を主体的に行うというのは、賃金が発生しないので難しいです。
切り詰めることの工夫は、献立の創意を削ります。
でもおいしいと言ってくれる家族がいるのはこの上なく幸せなこと。
違った個性の人がけんかもせず寄り集まって食卓を囲む暖かさは例えようもありません。
自分の栽培した新鮮な野菜を採り入れることができるのがやはり贅沢でしょうね。
余談になりいますが、菜園を手掛けていると、日本における農業の在り方も正直気になるようになりました。
が、何を読んで何を信じればいいのかもまだよくわからないです。
また、そういったことに一介の消費者がどう対応していけばいいのかもまだわからないです。
問題を取り上げる人、それを解決する仕事の人、いろいろな人がいます。
私も食を必要とすることに変わりはないので、傍観者では無責任と思うのですが、何かやって迷惑かけてもいけないので、せいぜい本を読むことくらいしかできないかなと思いますが。
はいはい。本読みましょう。
鈴木宣弘という先生の本が気になっています。