花とウォーキングシューズ

趣味を楽しむ生活記録です

現実にはこんな・・

なぜ花のアップの写真を今まで撮ってきたか…あまり見栄えの良いご近所じゃないという一因が実はあったりして…。花のアップは迫力があるし。で、ヒガンバナ

 

でもまあ繰り返すようですが、なんだかワンパターンが苦しくなってきました。皆様の写真を拝見して少し感覚を広げたい気分。ヤブラン

 

でもって今日は少し工夫してみました。ヒマワリ

 

どんなもんでしょうかね。カンナ。

もう少しでシュウメイギクが咲くと思うんですが、どこに咲いていたっけな。

 

さて、公開講座に行ってきました。

哲学の話というから姿勢を正して一生懸命聞いてきましたが、

なんだか、終わった後の気分は教会の日曜学校に参加したような感触です。

 

精神的によく生きようという目的において、宗教も哲学もたいして変わりないのでは。

違いは結局、宗教は教祖という権威があって、基本的にそのお言葉を一言一句尊重しなければならないことですが、哲学は自分で考えて個性を出せる自由度がある点かなと思った。

いろんな個性がいろんな言葉を生む楽しさがある。

でもまあ、乱暴な言い方だけど、大同小異で中身は大して変わんないと思う。

あ、戒律とかは哲学にはないけど。

宗教は集団でやるし、生活習慣を作るから、大変ですね。

あと考えるのやめるのかな?人の言うこと聞かなきゃいけないのかな?

やっぱだいぶ違うか。

 

哲学で期待できるのは対話ですね。

対話できる時間が取れるかどうかわからないけれど、いろんな人の経験に基づく考え方を知るのは楽しそうだなあ。

結局良く生きようとするには、心を良くするお言葉を傍らにおいておけばいいだけの話かもしれない。

でも、私の周りには精神病の人が多いのが現状だから、仕事に打ち込んで立派に社会でやっていっている人の傍にいられるだけでも薬になる。

ありがたいことです。

人間影響される生き物だから、できるだけ言葉を正しく使う誠実に自分を律する人の周りにいたいものです。

自分だけで誠実になろうとしたって、なかなか難しいです。

と、いう訳で、充実した時間でした。

今後、ブログのネタにもしたいんですが、なるかなあ。

 

それはそうと、今すごくありがたい時代で、難しくてとてもじゃないけど読めなかった哲学の本が網羅的に優しく解説してるのあるの。哲学カフェで教えてもらいました。

ご参考までに。ものすごく簡単で、含蓄のあるお言葉が366個!まず図書館で探してみてね。

ちょっと悩んだ時なんかとてもいい気分転換やアドバイスになります。

またしてもアバタローさんですが、手伝っている人は100人近いんじゃないかな。

みんなが力を合わせて作ったんだって。

それこそ智を愛する人々って感じ。

捨てたもんじゃないなって気になりました。

結局私は幸福かつ自由に生きたいのですが、それにはいろいろな人の知恵というか、それについて一生懸命考えた人の言葉がとても参考になります。

 

にしても仕事、ライフワークはあった方が自律的になれる。

また仕事決まんなかったので何とかせねば。

 真二つに月光仮面割れにけり

花と蝶

ポーチュラカ がここへ来てようやく元気になったような気がします。早朝 じゃなくて10時だったからかもしれません。関東では秋の蝶のウラナミシジミが蜜を吸ってました。

 

同じく ポーチュラカ にミツバチ

 

まだまだ元気な ムクゲ と チャバネセセリ。今日は天気よくて、虫さんがいっぱいでした。

 

アバタローさんの過去のYouTubeを見ています。

夏目漱石の言葉が厳しい。

人格形成のない人間に自由を手にする資格はないといった言葉です。

当たり前のことなのですが、

ひどく耳が痛い。

これから勉強なんて、本当に自由の追求以外の何物でもないのだから、もう病気起こして人に迷惑をかけないようにします。

自己コントロールします。

ひどい怒り方しません。

仕事は今のところできないけど、社会性は持ちます。

勉強は無理せずちゃんとやろうと思います。

先は厳しいと思いますよ。

この世の中でこのわがまま。

今までめちゃくちゃだったし。

最善を尽くします。

真人間になるきっかけとなりそうな気がします。

一生普通になれないままの可能性も高かったのが事実。

統合失調症になってしまったのは、やはり破滅に限りなく近かった。

人によっては一生分の長い間、闇の中に住んでいた。

恐ろしいことです。

発病後、30年間、考えられる限りあらゆる手を尽くしてもらって、できる限り努力して、やっとスタート地点の光が見えてきた。

借財は大きいです。

が、まあ気を付けて自然体でやります。

 

 月今宵背後の影の長きかな

 

目の前に新しい世界が・・

写真はグーグルレンズ様によるとヒカゲチョウらしいです。基本的に日本しかいないそうですよ。地味な蝶ですが、模様がきれいですね。市民の森に居ました。

 

さて早々とご縁あって今度、社会人向け講座を取ることになりました。

YouTubeで予習しています。

貯金は下ろすことになりましたが、すごく期待しています。

日本人の書いた哲学の文章を解説してくれるはずの講座です。

おそらくですが、幽玄っぽい、こうなんというか、一人の思考も感覚も周囲の世界の中に溶けだしていくようなと言ったらよいか、世界と人や動物や植物といった生きたものがなじんでいるような状態を言葉で表しているんじゃないかなあと勝手に期待しています。

ぎすぎすしてない調和というか、お互い溶け合っている感覚ではないかと思っています。

死んだ者の気配とかも含めて、世界の中に抱かれている感覚ではないかと勝手に期待。。。

ということで、私は盛り上がっていますが、心は安定してきました。

きっととても難しいとは思いますが、あんまり真剣に細かいところまで理解しようとせずに、雰囲気だけ味わうつもりで行ってきます。

いや、哲学なんておよそお金と縁がないはず。

しかし、安定するんですよ。

このところ、怖いくらいぶっ飛ばしています。

実家に住まわせてもらっているから何とかなっていますが、介護も控えてるんですよね。

なるだけ健康であってほしいものです。

極道娘。いやおばさんなんですが。。

この年になったら、もてないので、可愛くなくても好きなことをやろうと思います。

 

 虫の音や鈍く光れる電子辞書

 

カウンセリングを受けてよかったこと

カウンセリングを受けた結果、少し落ち着いたというか、等身大の自分の感情がわかってきた感じ。

今まで自分の感情が理解できていなかったのがわかってきました。

周りの人にいやって言えない性格で、最終的に問題大きくすることが多かったです。

出来ないことと出来ることの区別もついていませんでした。

周囲の人は私のことを思って言ってくれているんだから、その好意にはできるだけこたえようという姿勢が、度を越していたようです。

また足元見ずにできもしないことやろうとしたことも失敗の原因でした。

ドン・キホーテっぽかったのね。

個性が違うんだから、よく理解してくれている人でも、理解の及ばないところはいっぱいあるし、やはり自分自身が自分を一番理解しなくては問題を起こすのですが、

それが出来ていなかったようです。

自分に嘘ついて無理してたんだなあ。

弱くて無能な自分が嫌だったんだなあ。

でもまあできないことはできないのは運命みたいなものかも。

また、中途半端なら器用貧乏で少しできてしまうのが、よけい問題を大きくしてました。

子供の勉強の手伝いとかならできる気がするのですが、ボランティアでも私の病名がわかると難しい。

ままならぬわ。

仕事決まらなければ、本当にどっか通って勉強しようと思います。

今一番関心のあるのがやっぱり文系のことで、YouTube見てます。

哲学者の紹介やっているアバタンだっけ?その人の映像見てます。

よくできてる。

やはりアドラーの実践に基づく理論展開は素晴らしく納得がいきます。

人間経験だわと思う。

ニーチェはいろいろ言われるけど、私には机上の論理のように思われます。

幸せに生きるにはいずれにしろ明るい考え方を持たなくては無理だと思います。

これからでも地道にやっていこう。

適当な文章書いてるけど、文章書くの好きだし、しかも見せちゃうの大好きだし、

なんだかなと思われる方もいらっしゃると思いますが、最近自分のことばっかで皆様の文章もあまり読んでいないので申し訳ないのですが、お互い成り行きに任せましょうね。

まだまだ発達途上なんです。

 

否定と肯定

「いやいやえん」という絵本があった。

なんでもかんでも嫌々を言う困ったちゃんの男の子の話。

まあでも幼い子供の嫌々は自己確立のための大事な成長過程だというし、きっと全く罪はない。

問題は大人の否定癖。

私は他人に流されがちなくせに、もっと安心して委ねていい事柄について疑問を抱いたり、否定をしたりする癖がある。

仕事の在り方とか、学校の在り方とか。

それより自分の在り方検討したらという感じなのだ。

否定癖があると、どこか心に安全弁が掛かって思いきり物事に打ち込むことが出来ない。

没入の味をついぞ知らない。

損したな。

しかし、何事においても全面肯定ができない性格。

ひねくれものなんだなあ。

体壊さないけど、心壊しちゃった。

否定するとそこで話が終わっちゃうから肯定した方がいいに決まっているんだけど、キャパシティがなかったなあ。

また就職の話で恐縮なんですが、できそうな仕事はあるんだけど、いろいろ当たっているんだけど。

障害と言っても寛解と言われているので、無理のない範囲でならきっとできると思うんですが、それを言ったら、確実に決まらないのでクローズにしている。

就職が決まらないことには、勉強なり、なんなりやりたいことがしづらい。

黙っているのは心の負担なんですが、そうしないと先に進めないのです。

やりにくい。

煮え切らない。

正々堂々とやれる立場ではないのがいや。

ポーカーフェイスに磨きがかかる。

A型作業所でもいいと思ったこともありましたが、週5一日5時間なんて週2,3日のパートより無理だと思うし。

勉強したいなあ。

無料のオンラインでやるしかないかな。

放送大学という手もあるのか。

単位要らなければ安く上がらないかな。

でもまだ正直科目が選べない。

なんて言ってないでやるか。

本をしっかり読みたい。

ああ年齢が恥ずかしい。

スマホやチャットGPTの情報はやっぱり血肉にならないと思う。

自分でまとめる過程がない。

急場は多分しのげるだろうけど、財産にならない。

私はでも今まであまりにも自己流に本を読んでいたので、悪い癖がついていると思う。

しっかりした指導者が欲しい。

なんて贅沢なのかなあ。

もう老後の安心は考えたくない。

惨めな死に方でいいから、やりたいことしたい。

50㏄の旋律

 哲学カフェという言葉を知ったのは2年ほど前だ。
 哲学という抽象性が魅力的な学問と、街の中に点在するカフェの組み合わせ。
 都会的で、なんとなく議論の町パリを彷彿とさせる印象がある。
 照れ屋の日本人にとってはちょっぴり「柄にもなく背伸びしますが」といった風情かなと思う。


 もっとも、若い人にとっては、照れている場合ではないだろう。
 生き方の模索はどの年代にも必要だが、若い人にはひとしお切実なもの。
 私のように遊び心に誘われて訪れる人は少数派かもしれない。
 いや、やはり、ほとんどが遊び心、お洒落心かな。
 哲学講座、哲学教室とは言葉の色合いがかなり違うから。


 さて、カフェと言う言葉が世の中に出始めたころ、カフェと喫茶店の違いはお酒が出るか出ないかだと説明され、お昼からお酒を飲む習慣が根付くのかと抵抗を覚えた。
 でもカフェはどんどん立ち、それほど問題になっている様子もない。


 世は移り変わり、日本人がカフェの存在に馴染むほど、おしゃれになったかどうかは知らないが、クールだと言われるようになった。
 さらに、今度は貧しくなると言われている。
 そういえば、今、街の中で見かける人々の服装がずいぶんお金のかからないものになってきた。


 これからは心意気が問われる時代だと思う。
 心のお洒落である。
 哲学をお洒落と言っては顰蹙を買う恐れはあるが、でも所詮そんなものではないかと思う。


 日常は決して格好いいものではない。
 問題が起こってなりふり構っていられないとき、変わり映えのない生活に重苦しさしか感じないとき、他者と比べて自分の在り方にうんざりするとき、そんな時、一言、二言、哲学の視点を持っていると、無意味に見える時間にささやかな価値を見出すことが出来る。


 誰もが主体的に人生を選び、生きていることが見えてくる。
 問題を抱えた人もそうではない人も、生を輝かせていることが分かってくる。


 どのような人生もおそらく味わいがあり、美しいものだと思う。
 たとえ糾弾されるような人生であっても、その人の魂の奥底は、その人生の意味を分かっている。


 哲学カフェに行って、美味しいワインを頂いて、何となくそういう気分になった。
 ワインの効果は大きいと思うが、その余韻がまだ続いていることを思うと、あながち的外れではないのでは。
 

 

(。。。はてなブログやめる、やめると言いつつ、エッセイなどここで書く私。。どうも首尾一貫性が持てないです。自分でも先が読めない。(^^;)写真は萩です)